菅義偉(すがよしひで)氏を「カンシキ」

 菅氏が次期、総理大臣になる事はほぼ決まったかのようだ。安倍政権時代、菅官房長官は、冷徹な「悪代官」というイメージだったのだが、では実際、どういう人なのか、いまいち私にはイメージできなかった。
 今回、次期総理になるらしいという事で、マスコミやネット上にも色々と情報が出だしてきている。それらを参考に若い頃の菅氏がどのような人であったのか、想像してみたい。

 まずは、ウイキペディアを見ると、
『父、菅和三郎は第二次世界大戦末期、満鉄職員として当時満州国の首都だった通化市で日本の降伏を迎えた。引き揚げ後、郷里の秋ノ宮で農耕に従事。「秋の宮いちご」のブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任し、2010年に93歳で死去した。母や叔父、叔母は元教員であり、2人の姉も高校教諭となった。

雄勝町立秋ノ宮小学校(現、湯沢市立雄勝小学校)卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現、湯沢市立雄勝中学校)に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。後に、「フライデー」から「特に目立った成績ではなく、姉が進学した北海道教育大学を受験したが不合格となった」と報道されたが、森功の取材では菅本人は当時教員にだけはなりたくないと考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後、集団就職で上京する。「東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を板橋区の段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感する。上京から2年後、築地市場でアルバイトをしながら、当時、私立大学の中で一番学費が安かったという理由で法政大学第二部法学部政治学科へ進学する。1973年、大学を卒業し、建電設備株式会社(現、株式会社ケーネス)に入社した。』
 とある。

 ここから分かることは、父親は元、満鉄職員であり、戦後、地域の農業で中心的な役割をはたし、町会議員もやっていたような人である。
 母,叔父、叔母、姉たちは、教員であり、姉二人は高校教員である。菅氏は、高校卒業後、上京し、働いたり、法政大学の第二部(夜間)を卒業したという事だ。
 
 また、東京に出るに当たり、親の意見とは対立して東京に出て来たらしいことも分かる。

 ここで、巷に言われているように「家が貧しく苦学生として大学を卒業」と言われている事への疑問の情報がネット上に出ていた。

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『*菅義偉の苦学生デマも、かなり前に嘘だってばれてるのに。
実家は大学に通わせるぐらいは余裕の裕福な家庭だが、大学受験で合格した大学が左翼色が強い法政大学夜学で、保守色の強い菅の父が激おこで、自分で金を出して通えと放置。左翼への怨念がここからスタートした説もあるのだが。』

『*「巷では、菅義偉氏は秋田の貧しい家に生まれ、そのため大学は昼間は働いて法政大学の夜間に通ったということになってます。しかし実際は裕福な家庭で、1浪してやっと夜間に受かったが、それだとイメージが悪いので苦学したストーリーにしている」←前からその噂はあったが』

『*菅義偉官房長官の「苦学生の経歴」は絶対に嘘。
実質社会人を2年しかやってないのに秋田の実父が存命中に横浜に持ちビル所有。
一体どこにそんな資金があったのか。』
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 今日は、朝の民放テレビで、法政大学時代の空手部の顧問や仲間が、菅氏の様子を語っていたのが出ていた。空手部でかなりしっかり鍛えていたらしい。力も強く最後は二段をとったという。
私が「?」と感じたのは、昼間は働いて夜学ぶのに「空手部」に入ってかなり本格的に練習を積み重ねられるのかなあ?という疑問だ。

 菅氏は、安倍首相のように甘やかされて苦労せず進学していった訳では無い。父親が地道な地元での生き方を求めたのに対しておそらく反発して都会に出ていったのだろう。それは、ネットでも言うように経済的に貧しいから、という訳では無かったと思うが、かといって「裕福」というほどでも無かったのではないか。

 ネットでは、「一浪してやっと夜間に受かったが」と書いてあるが、確かに、当時の国立大学なら、奨学金をもらってアルバイトも少しやれば、そんなに「苦学」しなくても楽に卒業できた。現に同時代人である私も高3の時、父親を亡くしたが、奨学金と時々のアルバイトぐらいで、別に親に学費を送ってもらわなくても卒業できた(もっとも現在の大学生のような広い活動はほとんどしなくて安いボロ寮に逼塞していたからだと思うが)

 菅氏も、国立大学を受ければ、それほど「苦学」しなくても済むのにと思えるが、入りたい学部が難しかったりして、入りやすく、学費が安かったので法政の2部にした、というのも事実なのだろう。もっともダンボール工場で働いていたりなどすればろくな受験勉強なども出来なかった事だろう。

 今朝のテレビでは、空手部などの活動を一生懸命やっていた所を見ると、昼間はいつも仕事、夜は学問、という切羽詰まった生活では無く、アルバイトもある程度の物だったのかもしれない。(しかし、私立だし、都会で生活費もかかったりするからよく分からないが)
 家からの支援も途中から少しはあったのかもしれない。
 
 菅氏は、昭和23年生まれであり、東京へ出て行った年は、1966年頃?なのか、それから2年後に法政大学2部に入ったという事になるが、ちょうどその頃、1968年~90年頃は、いわゆる「全共闘運動」が吹き荒れて、東京の大学では東大や日大などを中心にものすごい「学生運動の時代」だったのだ。(と思う)
 
 私は、菅氏よりちょっと若い現在70歳で、当時、田舎の国立大学へ通っていたが、東大の全共闘が滅んでから、それが田舎に飛び火した感じで、通っていた松本の教養部が信大全共闘により封鎖され、その年、授業があまり無かったりした。

 その辺の、様子については以前、自分のブログに書いた事がある。
 菅氏が通っていた頃の、大学の様子が良く分かると思うので、ここに載せてみた。
「日本会議の研究 菅野完著を読む」という題で
https://js30.at.webry.info/201605/article_4.html
 長く書いた物なので、真ん中あたりに自分の当時の感じや、いわゆるあまり政治的な事に関わりたくないという、また反発していた学生の事を書いているのだが、ここに菅氏が安倍首相と馬が合った理由が何となく見てとれるように思う。

 当時の学生運動が嵐のように吹きまくった時代に、東京の私立の政治学科など行かせたくない、援助したくない、という左翼嫌いの気骨ある父親の様子も想像がつく。きっと父親がそんなに援助はしなかった事は確かなのだろう。

 しかし、父親の恐れは「杞憂」に終わり、菅氏は空手などに打ち込んで、「学生運動」などには見向きもしなかった。しかし、逆にこの「学生運動の時代」に対する「反発」のような気持ちが菅氏に大きく育ったり、また逆の意味で「政治」そのものへの興味もはぐくまれたのかもしれない。(もともと政治学科へ入ったから興味もあったのだろう)
 菅氏が、現在「日本会議」の国会議員の会の副会長にもなっているし、「日本会議」の感性に、学生時代の体験などが基盤にあって共感するところがあるのだろう。
 ちょうど、安倍首相が中学校だかの時に、安保改定への批判を話した教師やクラスの雰囲気に反発したという話と同様の気持ちがあったのだろう。

 また、父親が満鉄の職員だった、という点では、『満鉄』に勤めていたと言えば、当時の田舎では「一流企業に勤めている」という感じであり、それが敗戦で一介の引揚者となった訳だが、(後に地元で成功するが)岸信介も満州国の商工大臣だった訳で、先の戦争に対する家族の見方なども、両家で似ている面があったのかもしれない。

 トランプ大統領が学生時代、アメリカで、それこそ「スチューデントパワー・ベトナム反戦」の嵐がキャンパスに吹き荒れていたのだが、若きトランプ大統領は、投資とかそういった方面に興味があって、そんな事ばかりしていて学生運動には全く関わらなかった、とアメリカのドキュメンタリー番組で言っていたが、内容は違うが、菅氏も少なくとも、当時の多くの学生が多少なりとも興味を持とうとした、「戦前、戦後の政治はどういう物であったか」「アメリカと日本との関係は」「近代の日本の歴史とは」「資本主義とは」などといった事を学生時代に真剣に考えたり悩んだりするようなタイプの人では無かった事は確かだ。

 以上、菅氏について感じた事を書いてみたが、ネット上に政治家の秘書になってからが「水を得た魚」のように嬉しく活躍できたと語っている」とあったから、そういった能力や才能は高いのだろう。

 また、安倍首相のように『宿題をしないで誤魔化す』タイプの人ではなく、二代目、三代目でもない。自力で国会議員になったのであり、勤勉な頑張る力や体力はかなり大きいだろう。だからこそ安倍政権もあんなに長持ちしたのだろう。

 野党も、批判する人たちも、よほど「ふんどしを締めて」対峙しないと、安倍首相に対するような気持ちでやっているとやられてしまうのではないか。より厳しい相手となる事だろう。安倍政権下でやってきたと言われる事を見ると、戦前の「特高警察」のような雰囲気が何となく漂うような感じの人なのではないか? 
 本当の姿はどういう物なのかわからないが。
 

 

  
 

「鉄道員」というイタリア映画を見る

 NHKのBS3でプレミアムシネマという時間があり、たまにだが見ることがある。時々、ブログに感想を書いてみたくなる作品もあり、しばらく前にこんな映画の感想も書いた。
https://js30.at.webry.info/202006/article_18.html

 私は、昔から映画は、映画館などであまりまともに見ていないので映画についての「知識・教養」がとても乏しい。以前、このプレミアムシネマで小津安二郎監督の「麦秋」というのを最後まで見た事があり、「ああこれが良く言われる小津監督の映画なのか」と印象に残っている。
あとはここでは、第二次大戦のヨーロッパ戦線を舞台にした戦争映画を妻に文句を言われながら見るくらいだ。

 今回は、「鉄道員」という映画で、外国(イタリア)の白黒映画であり、イタリア映画など見た事も無く、特にこんな古いフィルム、元々見るつもりが無かったのだが、何となくつけてみると最初の題名が出てくる所で、聞いたことがある主題歌のメロディーが出て来た。
「ああ、この音楽は聞いた事があるなあ~」と思いながら、そのうち飽きてスイッチを切るだろうと、期待せず見始めていると鉄道事故の場面などが出てきて、消せずに見ているうちにお話の中に入り込み最後まで見てしまい、「いい映画を見たなあ~」というよい気持ちになった。

 これは1956年制作とあり、という事は昭和31年に作られた映画だ。日本の「三丁目の夕日」の映画が昭和33年を舞台にしているというから、ちょうどその頃からちょっと前の時代のイタリアが舞台だ。(こちらは作られた時代そのものもその頃だ)

 頑固な鉄道の機関士である父親とその家族、敗戦国の鉄道の厳しい労働条件やストライキなどが時代背景にあって、父親の生活に大きく影響していく。また、家族の長女、長男が思春期から大人になるにしたがっての様々な問題が起き、それが父親との確執になったり、またその中に父、母と家族の深い愛情が感じられたり、イタリアの古き良き時代?の職場や近所の人達などのつながりというか雰囲気のような物もあったり、一番下の小学生の子が賢く、その子の目から見ている様子、といった感じでお話が進行していく。(実際の年代を考えると、この子供がちょうど現在の私の年齢くらいにあたるのだろうか?もう少し上かな)

 何か今の自分の年齢になって見ていると、非常に懐かしい感じがした。自分の子どもの時代の世の中の雰囲気、職場での仕事やその時代背景、子どもが思春期になって色々と親に反抗していく様子、しかし最後に親子の深い愛情の実感、といったものなど、人間や家族関係がとても良く描かれている気がした。

 この家族は、いわゆる「核家族」であり、家族関係という点では、当時の祖父母も同居するような日本の家族というより、我々のような第一次ベビーブームの核家庭的でもあり、おそらく日本とヨーロッパでは一世代分日本とは違っているのか?または時代とは関係のない普遍的な事が描かれているのか?それで自分とこの家族とを同一視する事が出来たのかもしれない。

 父親が最後に病死するのだが、まあある意味ハッピーエンドに終わる所がちょうど映画だからいいかな、という感じだ。イタリアの人も日本人とは雰囲気は違うけれど、自分たちと同じ人間なんだなあ~、「映画」とはいいものだなあ、などと思った。
 きっと、この映画を人生経験があまり無い学生時代などに見たとしてもそれほど面白く感じなかったかもしれない。