裁判所の正体 瀬木比呂志✖清水潔 を読む(第8章)

 第8章 日本の裁判所の未来

 いよいよ最後の章になった。最初、この本を読んでサッと感想を書こうなどと思っていたが、とうていそんな事は出来ない内容が詰まっていたので、細切れに読んでいったが、おかげでまさに「裁判所の正体」がけっこうはっきりと分かった気がする。
 日本では三権分立などという物は現在、無いのだ。
 
 この章の初めの部分に、「求められる国民のあり方」という節があり、
 『 瀬木 私はイノセントです。何もわかりません、権力のほうでちゃんとしてくださるのが当たり前です。みたいな民主主義のとらえ方が、日本ではまだまだ強い。
 清水 お上に任せて、従うという。
 瀬木 そうです。「自分は責任をもたないけど、ちゃんとやってね」というのはお上意識ですよね。』

 と言って、サン=テグジュペエリの「星の王子さま」に出ているバオバブの木について、「大きくならないうちに抜いておかないと、小さな星なら破裂させてしまうよ」と王子が語るのは、ファシズムの事であり、ヨーロッパでは、童話で子供の頃からそういう深い意味を叩きこませる事や、一方、日本民事訴訟法学会の国際シンポジウムで「裁判官のパターナリズム(家父長的干渉主義)のどこが悪いのか?当事者の中には今でも大岡越前や遠山の金さんのようなタイプを求める人もいる。日本の社会は、言葉や建前とは違って、自己責任や自立には消極的であり、本音では公権力のパターナリズムを求めている」といった発言をする裁判官もいるという事も語られていた。

 『 瀬木 ~でも、権力に任せておけばいい、という認識のあり方は、結局、そういう裁判官の発想を正当化してあげることにつながってしまうわけです。政治家や官僚についても全く同じこと。
 清水 星の王子さまと大岡越前。なるほど、教育的見地で考えると深いですね。
 瀬木 裁判所も、権力の一部である。権力の一部でありながら権力を監視している権力である。だから,二重の意味で、市民・国民の目がきちんと行き届いていないと堕落しやすいということを、知っていただきたいです。
 清水 この基本的な構造を知らない人が多いような気がします。
 瀬木 「全体の趨勢がこうだから、もうどうしようもない」みたいなことを日本人はいいがちなんだけど、そういうものではないと思うんです。やはり民主主義というのは、個々人ががんばらなければ、絶対に実現されない。
 清水 本当にそう思います。個々の努力で勝ち取り、維持するものでしょう。表現の自由だって与えられるものではなく、勝ち取り続けるものです。』
 
 という事で、やはり我々、国民、一人ひとりの意識が変わらないと根本から変わっていく事は無いのだろう。

 続いて、裁判所の未来について、法曹一元化の方向が語られている。現在は司法研修生という学生から裁判官になっていくのだが、欧米の先進国では、一定程度、弁護士など社会で活動してから裁判官になるような制度だったり、裁判官の任用や昇進について透明性のある開かれたシステムになっていて、日本の様な非民主的な密室で行われるようなものではないという。法曹一元化について批判もあるようだが、弁護士の中の国民の立場を重視する、優秀な人達が裁判官になれば良いのでは、とだれもが思うのではないだろうか。
 韓国では、民主化以来、この法曹一元化が行われているという。

 この本の最後は、「国のあり方は司法で変わる」「日本の裁判所とジャーナリズムが進むべき道」という事で、現在の日本の問題点や司法の大切さが話されている。やはり司法はきちんとその力を発揮すればとても大きな力を発揮できるという。本当にそうだろう。またジャーナリズムも権力への監視という力を蘇生させる事が期待されている。

 この本を読むと、やはりこういった我々が知っていない国の基本的な骨格に関わる様な事について、その現状とか問題点、我々の考え方の傾向とか、分かるように解説してもらうと、何か目の前に起こって来る色々な出来事のニュースなどについて、よりその本質が見えるようになってくる気がした。

 現在、「表現の不自由展」について、県は再開しようとしているが、文科省は補助金を打ち切り、潰そうとしてきている。ここで国民がそういった権力の横暴を見逃すことなく、開催を支持したり世論を盛り上げたりする事が出来たなら、その時、はじめて、多くの国民にとっては、どこか関係ないところで行われていた良く分からないような現代アート展であったものが、自分たちにとって意味のある芸術になり、日本の「表現の自由」が少し進んだのたと言っていいのではないか。
 そういった一つ一つの小さな不断の戦いが非常に大切になってきていると思う。

 今朝の地元紙(信濃毎日)には、長野県の原中学校(諏訪郡原村)と長野県朝鮮初中級学校(松本市)の生徒の文化祭での交流がSNS上で反響を呼んでいる事が紹介されていて、これは、日韓関係について関心を持った原中3年の二人の女生徒の呼びかけで始まったという事であり、記事にもある前川喜平氏のツイッターでも、「在日朝鮮社会と関わりを持つことに躊躇する人も多い中、子どもの気持ちに沿って交流を後押しした学校や教委は立派」と書かれていた。そのツイッターは、最近私も見たが、今日の新聞を見るとその女生徒たちは名前も公表し、二人が活動している写真も載っていた。現在の世相の中では勇気ある行動だと思う。

 こういった草の根の人達の動きが、本当の民主的で自由な国を作る真の力なのだと、この本を読んだ後では、特にその意味が強く感じられた。
 
 

裁判所の正体 瀬木比呂志✖清水潔 を読む(第7章)

  第7章 最高裁と権力

 前の章からの続きで、最高裁は「統治と支配」については権力の意をくむ方向へどうして行くのか、また裁判官はどうして最高裁に統制されるか、が色々な裁判の例をあげて述べられている。瀬木氏自身の沖縄地方裁判所での体験も語られる。

 最高裁の事務総局などの組織や最近の人事構造について、色々と話されている中で、
『 瀬木 全くそのとおりです。日本の企業が弱くなった一つの原因は、想像力、創造力に乏しい人事・経理系の人間がえらくなるようになったからであり、マスメディアにもその傾向はありますね。~』
 想像・創造と言った感じとは別の、強権的、ヒラメ的な組織にどんどんなってきてしまった事が色々と話されていた。

 また、『裁判官が国の弁護士に?~三権分立は嘘だった』の節を読んでみると、清水氏も驚いていたが、今の日本では、最高裁判所の裁判官が法務省に出向して法務省でずっと仕事をして戻ったりしている。検察庁は法務省の一特殊機関であるし、法務省には検察庁のエリートも仕事をしているという。
 民事の難しい行政事件とか国家賠償請求事件についてなど法務省に出向した裁判官が弁護士役をやったりもするのだという。
 裁判官が法務省に出向して色々とやっていた、また裁判所に戻ってくるような話は本当に驚く。日本では、全然、三権分立となっていないのだ、という事がよく理解される。
  
『「憲法の番人」ではなく「権力の番人」』という節を読んでいくと、本当に日本の現在の裁判所に「憲法の番人」を望む事は無理なのだと納得する。
 色々な過去の「統治と支配」に関する裁判では、まさに「権力の番人」というような内容の判決がずっとだされ続けている。

 また、2000年以降、官全体が劣化してきていて、日本全体のモラルが低下してきているという。
 最高裁でも不明朗な会計が国会で指摘されている状態。検察でも10年以上前だが、大阪高検公安部長をやっていた三井環氏という人が、検察の裏金を告発しようとし、テレビのインタビューを受けようとしたら、次の日、その人は逮捕された。その容疑は「住民票を置いてあるところに住んでいなかった」という理由で逮捕されてしまった。という事件があったと清水氏が話す。まさに検察の上の方が腐敗しているという事で、韓流歴史ドラマの悪が勢力を持つドラマの前半のような雰囲気だ。今の政治では本当にこういったような事が横行している感じがあらためてする。

 日本全体の劣化という事はどうしていったらよいのか、対談する二人もその困難を感じているようだった。

 章の最後は最高裁の現状について、このように終わる。
『 清水 結局は、これまでの構造そのものが引き継がれていくから、人が替わっても何も変わらないということですか。
  瀬木 そのことが、たとえばこの人事なんかにも現れていると思うんです。前からの力というものが、その後もはっきりと尾を引いている。だから、最高裁の今のような裁判官支配・統制の形というものが一旦完成してしまったら、これは、もう、そう簡単には変わらない。今の最高裁の権力支配構造は、二冊の新書で書いたとおり、戦後最高裁の歴史の中で、ことに、最高裁のリベラル化に危機感を抱いた自民党が強烈にプッシュした石田和外長官時代以降、負の遺産として連綿と引き継がれ、それが竹崎長官の時代に至って全体主義的共産主義国家のような異様なシステムとして完成したものです。これは、それこそ、ソ連が内部から崩壊するしかなかったように、おそらくは、外から動かせるようなものではないんです。でも、裁判所は、ソ連とは違って、国じゃないし私企業でもないから、崩壊しない。いくら劣化、荒廃しても、存続して、ツケは国民が払うことになる。
 そうなると、こういうふうな状態になってしまった裁判所を、本当に市民・国民のものにしようと思えば、抜本的な改革をするしかないと思うんです。それが、弁護士の気構えという問題であり,法曹一元化という課題です。』

 と終わっている。

 いずれにせよ、日本にはちゃんとした欧米先進国基準の『三権分立』という物は無く、どちらかというと、独裁的共産主義国家の国の機関や、戦前のように法務省の下に裁判所があるという感じに近い物なのだろう。
 自由や民主主義のレベルを欧米並みに高めるために、国民はこういう現実もちゃんと認識する必要があるのだなあ、とこの本を読んでいくとしみじみ感じる。