上田泥流の 二つの学説を調べてみた

 最近、ふと「上田泥流」をグーグルで検索したところ、私が2013年の2月に書いた訳の分からないようなブログの文章が色々な話題の下の方に出てきた。
 https://js30.at.webry.info/201302/article_1.html
 こんな文章を書いた事すら忘れていて読んでみると思わず恥ずかしくなった。当時は東日本大震災や福島原発の事故の後で「反原発」の気持ちでブログを書いていたので何でもそこに結び付けて書いていたのだろう。(今でもその気持ちは変わらないが)
上田泥流の起こった原因について、その説が色々ある事を、当時、本気で調べてみたいというほどの気持ちは正直、私には無かった。

 その後、2016年NHKで「真田丸」が放送され、「ブラタモリ」が上田に来た。テレビを見ていると、Y先生が出てくると思いきや、県の環境研究所の人が出てきてお城の下の崖で「上田泥流」をタモリに説明していた。なので、私はあまり注目せず何かしながら見ていた程度なのだが、その後、前のブログに書いたY先生こと地元の地質研究家の山辺邦彦氏とお会いする機会があり、先生も喜ぶ事と思い「上田泥流の事、ブラタモリで取り上げていましたね!」と聞くと、「あれは、私の説とは違っているのです。」と言われ、「まずい事を言ってしまったかなあ~」という出来事があった。

 「そうか、あのブラタモリの説明が、前にブログに書いた二つの説のうちの山辺氏の物でないもう片方の説なのか」とその時に、はっきりと認識した。
 簡単に言うと、二つの説は、その泥流の給源の場所も起こった年代も違っている。
 ○山辺説は上田泥流の元は、「深沢爆裂火口」から説、で1万6千年より新しい出来事。
 ○富樫説は「古黒斑火山」から説、で2万4千年ほど前の出来事。

 なお、山辺氏は学生時代からずっと第四期の火山灰研究を続けて来て、現職中も各地の地誌など依頼されて上田周辺の地域の地質を火山灰編年法なども使い調べ続けたり、地学を生かした色々なユニークな教育実践もされ、小学校校長を退職してからも火山岩を粉砕して造岩鉱物を調べ岩石を分類する独自の手法を開発されたりしている地元の地質研究者で、講演されたり印刷物の出版もあり、子ども向け鉱物講座などもされ、地元では知られた方なのだがネット上には全くその実態を見る事が出来ない。

 私は退職前、小学校の教員だったので子供向けにやさしく書かれた「上小理科物語」などの本を通して以前から山辺氏の上田泥流説の方は知っていて、池の平のカルデラ湖の東側が噴火とともに崩れて中の水が岩屑とともに流れ下ったというイメージも面白く、山辺説ももっとネット上に出ていても良いのでは、また、それぞれの説の理解も深めたい、と思ってこのブログを書くことにした。

 上田城の乗っている上田泥流の地層の給源が、ブラタモリの「古黒斑山火山の崩壊」か、はたまた山辺氏の「三方ケ峯と高峰山の間の深沢爆裂火口」か、という問題は、上田の住民にとっては、興味の持てる純粋に地史的な科学の問題である。自然や歴史、科学に興味のある方々ならきっと興味を感じる事だろう。
そんな点で、これは純粋に科学的に論じられねばならない事柄であり、研究されている当事者の方々も一般の我々の興味が高まるのは望むところだと思う。

 そこで、今回、それぞれについて、出版された印刷物や、ネット上に公開されている資料を読み、また、山辺氏とは面識があるので、いただいた資料なども利用してブログに紹介してみた。私は全くの素人なので専門的な地学の知識もほとんど無い。ピント外れになってしまったり間違いを言ったりしているかもしれないが大目に見ていただきたい。

 まず、「上田泥流」とネットを検索すると、トップに富樫氏の2015年の論文が公開されていて読むことが出来る。

 長野県環境保全研究所研究報告
 『上田盆地の地形発達と上田泥流の起源』 富樫均・横山 裕
 富樫氏は長野県環境保全研究所 横山氏は上小地質談話会、とネット上にある。論文は、一般の人が自由に見てほしいという事だろう。リンクは貼らないからネットで検索して見てほしい。それほど長くないのですぐ読めるからぜひ読んでから次に進んでほしい。

 論文にもあるように上田高校地学班の研究結果(1975年)から続いている古黒斑火山崩壊を給源とする説の流れを受け継ぐものだろう。

 一方、山辺氏の三方ケ峯と高峰山の間の「深沢爆裂火口」泥流説は、「上田市誌 自然編 ① 上田の地質と土壌」の中、117p~121pに渡り載っている。ネット上では見る事が出来ないので。ここに118p~120pをコピーした。
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 二つの説の概要については理解していただけた事だろう。さらに詳しくそれぞれの内容を見ていきたい。

 まず、富樫説の方では、結論として、
・上田泥流の上にあるお城の場所から1km以上北に離れた太郎山麓に近い所のNo1,No2の地点のボーリングで上田泥流の直上の地層の木片の放射性炭素を計ったら、2万2千~2万3千年前という結果が出ている事。
・水流等が関与したような級化層理やラミナ(葉理)等の堆積構造が泥流の地層に見られないので、水流は関与していない火山性の岩屑なだれであると思われる事。
・上田泥流の岩石と黒斑火山の岩石が同じという先行の「岩石学の研究」がある事。
(高橋・三宅(2012) は上田泥流が黒斑火山の山体を構成する火山岩の礫を含むことを記載岩石学的な対比によって確かめた)
・上田高校地質班(1975)の調査では、上田泥流の上流延長として少なくとも小諸市滋野までは千曲川沿いに連続的に分布が追跡されるとしている事。
 などを上げている。
 したがって上田泥流の年代は上記のように2万2千~3千年前であり、起源は黒斑火山の崩壊という事になるという。

 論文の証拠の一つにある「記載岩石学」の内容は何かと探すと、以下の関連の論文をネット上で見る事が出来た。

 日本火山学会講演予稿集 2012年(P47とP48)
 この問題と関係した内容として、並んでこの二つの論文が載っている。
 ○P47『長野県佐久市およびその北方に分布する岩尾層について : 高峯山周辺を起源とする岩屑なだれ堆積物である可能性(ポスターセッション) 三宅 康幸, 内掘 俊佑, 西前 健一, 藤原 幸介   信州大学理学部
 ○P48『長野県上田市周辺に分布する上田泥流の給源(ポスターセッション)』
  高橋 康, 三宅 康幸 
(ポスターセッションとは学会の会場でポスターにはって発表するもの)

 P48の方が上田泥流についての事。 詳しい分析の方法など私は知識が無いので本当の所、説明の内容が分かっていないのだが、上田泥流内の火山岩(複輝石安山岩)を三つのグループに分け、(P47と同じ方法でと思う)それぞれが黒斑山で採集した火山岩の三つのタイプの岩石に対応して存在しているので、そこから供給されたという結論になっている。

 P47の方は、黒斑山崩壊の塚原岩屑なだれの下位に分布する岩尾層というのが、山辺説で給源としている、高峰~三方ケ峯の間のくぼ地部分の崩壊した物であるとしている。その理由は「岩尾層」と「高峰、三方付近」の双方の岩石(複輝石安山岩)をこちらも、やはり3グループに分かれ、検鏡、化学分析し、それぞれの3つのグループとも「岩尾と高峰のある部分」が対応しているとする。三つのグループというのは、かんらん石の含有量とかSio2のパーセントによって分けているようだ。   
ただ塚原岩屑の岩石(黒斑山起源のもの)とその下の岩尾層(三方~高峰起源としたもの)とは、岩石の成分などがわずかな違いしか無かったと書いてある。
 この論文によれば、岩尾層は塚原層の下にあるので、黒斑山の山体崩壊以前に、三方~高峰の山体崩壊の方が起こった事になる。

 以上が、ネットなどで見れる範囲で富樫説の根拠が書いてある所なのだろう。

 さて、ここまでで、山辺説の方と比べると、火山学会の論文には、P47の論文には、『上田泥流を小諸軽石層が覆っている』と書いてあるが、これは地層的に上田泥流層より軽石層が上にあると読める。山辺説では119pに軽石が混じっている事を写真で指摘している。泥流層の上に軽石だけの層が上田の現場のどこかにあるのだろうか?
 また、富樫論文には、『~また年代については上田泥流に含まれる軽石を浅間軽石流の軽石に対比した根拠が示されていないことから,上記の山辺(2002)の解釈は,方法の妥当性を含め再考が必要である.~』
 とあり、批判的な文面の中にだが火山学会の方の論文の軽石層のような『覆っている』という見方はとっていない。(または別の場所でそういう所があるのかも?)

 時間的流れを見ると、上田高校地質班(1975)山辺(2002)高橋・三宅(2012)富樫・横山(2015)
 となっている。ブラタモリに富樫説が出て来たのが(2016)である。

 これらを受けて、山辺氏も再調査や批判に答える証拠を再度調べる、などを行って、その結果、2018年の2月に信州理科教育研究会の上小理研総会で、「上田泥流について」という演題で話している。(私はそういった会員ではないので聞いていない)ただ、その後、山辺氏が現場で一般人向けに小説明会を開くと連絡を受け、参加してみた。
 その時の資料を以下にコピーする。
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 この資料を見ながら、数人で現場で説明を受けたのだが、私は、事前勉強が不足していたのでいまいち「ガッテン」という感じでは無かったが、「これならやはり山辺説の方が正しいのではないかなあ~」という印象は持った。
 今回、あらためて色々とまともに調べて見ると、双方の主張も分かり、山辺氏の主張も納得のいくものに感じられる。学生時代から火山灰編年法などで、火山灰に入る鉱物を研究し続けてきて、退職後は火山岩を砕いてその鉱物を調べる方法を考案し、それが力を発揮しているように思える。

 富樫論文の『地質対比の記載が乏しく,先行研究に関する参照もない.また年代については上田泥流に含まれる軽石を浅間軽石流の軽石に対比した根拠が示されていないことから,上記の山辺(2002)の解釈は,方法の妥当性を含め再考が必要である~』
という批判に対して、地質対比、先行研究(富樫論文や他の研究者の成果を踏まえている)、浅間軽石の根拠、などの点でこの資料は、論文の形こそとっていないが、実質、充分この批判に答えていると思う。

 今度は、山辺氏の反論に対して富樫氏・横山氏の方が答える番なのではないだろうか?

 何と言ってもコピーした資料にもあるように、
『・泥流に浅間第2軽石流の軽石を取り込んでいる
 ・泥流に仏岩溶岩の黒曜石を数多く採り込んでいる。
 ・雲場火砕流が泥流直下にある。』
など、それらを現場で確認し、さらにそれらの特徴として先行研究の結果を踏まえ、造岩鉱物の点から確認しているなど、説得力がある。

 また、資料では、富樫論文のボーリングから出た2万2千年前の有機物も、上田原湖成層の物と考えられる事についても示されている。

 また、私は、現場で山辺氏に説明を受けた時に、「雲場?」「仏岩?」と言った知らない言葉が出てきてピンとこなかったのだが、今回、これを書くにあたって、ネットを見てみると浅間山の噴火の歴史のイメージがわいてくる論文がいくつかあった。
 古黒斑火山の崩壊についても正確なイメージが出て来る。これを読んでから今回の山辺説(資料の方)を見るとやっと流れが理解できた。
「浅間火山の地質と活動史」これは、論争に直接関係しないのでリンクを貼っておこう。
http://www.kazan-g.sakura.ne.jp/J/koukai/03/takahashi.html

 以上、色々と書いてきたが、これを読んだ皆様はどう思われただろうか?

 素人考えだが、良く考えてみると、上田泥流は泥流にせよ、火砕流にせよ、中に炭化した木片など何か有機物を取り入れている訳だから、富樫論文のように離れた場所などでなく、上田泥流の露頭を良く探すとか、上田泥流の露頭がはっきりしている場所でその物の上から少しボーリングして、直接そこから炭化した有機物を探して放射性炭素の年代測定をするのが一番良い方法なのではないのか。
また、それが無理なら、今、ウィキペディアの「放射年代測定」というのを見たら、フィッショントラック法というのは、黒曜石などガラス質の物質なら下限が1万年まで計れるようだから、山辺説で見つかった泥流内の黒曜石が仏岩火山の物か年代測定も出来るのではないか?
 どなたか、地質に興味のある方、研究されてみられたらどうか?
 年代についてはそれで完全に決着がつくことだろう。

 給源については、どうなのだろうか?上田高校のかつての調査で、上田泥流は小諸市滋野まで追跡できる、という事は逆に山辺説の深沢爆裂火口、池ノ平カルデラ湖崩壊説を裏付けているのではないか?
今、二万五千図を見てみると、ちょうど池の平の東側の一角が崩れて、さらにカルデラ湖の水がそこからドッと流れ出て斜面を壊して削ったような谷の跡が見れる。1万年前ころといえばその位な痕跡は充分残っているのでは?などという気がしてくる。
 また、「浅間火山の地質と活動史」を見ると、「仏岩火山」の噴火が最大級とあるので、それの岩屑というか泥流という可能性は無いのだろうか?年代的にも合っているが。

 火山学会の論文の方の岩石の比較の方は、私には理解の範囲外であり、ここで色々とコメントできない。そちらでは、崩壊のイベントが起こった順番は逆になっている訳だ。まだまだ決着はつかない事だろう。

  ぜひ、さらに調査、研究が進み、この面白い課題が解明される事を願っている。