「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」 を読む。

震災から二年が経過した。

大川小学校で当時六年生だった自分の娘を亡くした、遺族の中学校教師が、迷いつつも、真相をはっきりさせようと決意して行動し出しているような場面がテレビの特別番組で、放送されていた。

  そんな事もあり、気になってこの本を読んでみた。
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 大川小学校については、震災当時、気になっていたので、私もブログに自分の考えを書いた。
 以前書いたブログはこれ。
http://js30.at.webry.info/201104/article_19.html

 ところが、現在、この本を読んでみると、今までこの事故について私がいだいていたイメージとは違う事が、様々に明らかになっていて、私も小学校の教師だったので、本当に重苦しいような、悔しいような、何とも言われない気持ちになってくる。

 まず、津波が近づいてきたので、先生に引率され、並んで何分か逃げていて、というイメージがあったが、そうではなく、ほんの寸前まで、校庭にいたという事だ。それも、遊んでいた子もいたようで、避難して整然と並んでいたというより、何となく校庭に集まっていた程度の状態だったようだ。

 また、一人だけ山を意識して生き残った教務主任の先生が、校庭に皆がいた頃、「山へ逃げますか?」と教頭に言ったが、そうはならず、山へ逃げようとした子が他の教員に呼び戻されたり、山へ逃げようと、担任の先生に訴えている子もいたという事、先生達の中でもどこへ移動するかは意見がまとまらず、校庭に留まり続けるなど、地区のリーダーも含めて、決断できる知識を持った人が、現場を統率していなかった様子も分かる。
 また、うら山も、以前しいたけ作りなどに利用もされていて、危険だから立ち入り禁止という訳ではない場所だったようだ。(ただ、ちゃんとした道は無かったようだ)

  しかも、その辺の所は、まだ本当にしっかり明らかになっていない状態であり、一番おかしいと思うのは、そういった真実の姿について、一番良く知っているはずの教務主任の証言や、子ども達の聞き取りが、教育委員会などで、しっかりなされていなく、教育委員会の作文?なのか、メモが故意に捨てられたのか?と疑われている部分もあること、またその教務主任はその後、病気になってしまい、主治医が外部との接触を一切認めない、という事だ。

 校長も、震災後、一生懸命捜索に加わっていた訳でなく、震災後、最初にテレビに写った時に私が感じた違和感は、残念ながら事実だったようだ。
 また、その後の真実解明にも他人事で関わっていないのだという。
 遺体の捜索などにも関わっていなく遺族を憤慨させているようだ。

 また、市などの当時の方針も、震災時、教育長が決まらず不在だった事など、そういった上の方のおかしな状態も、想像した通りのようだった。

 親たちの証言によると、3,11の少し前や、直前に、子ども達の様子や言う事が、後で考えると「予言」のように思い当たる事がいくつもある例が書いてあった。
 子ども達の学校への不安感が、敏感な感受性で何か大凶事の予兆をとらえていたのかもしれないと思うと、本当に痛ましい気持ちになる。

 校庭にいた「51分間」がどうだったのか、しっかり明らかにされなければ、いけないと思う。そして、それがどうしてそうなったのか、その理由も分析されるべきだ。

それは、一人ひとりの教師や地区の大人の責任をせめる、というような事ではなく、校長の学校運営とか、津波についての正しい知識のあったと思われる教務主任の考えがどうして生かされなかったのか、など、その時の教師集団や地区の人の動きとか、そういった失敗の原因の事実をちゃんと明らかにすることが、本当にこの悲惨な事故を未来に生かす事でもあるし、亡くなった子ども達の存在が歴史に意味を持てる事だと思う。

  戦争責任や原発事故でも、本当の原因を探せない日本の体質がこういった面でも出てしまっているようで、いたたまれない気持ちになる。

  前述の子どもを亡くした中学教師の方は、現在、学校で防災マニュアル作りに関わっているが、学校の防災は、マニュアルを作ることだけなのではなく、「とにかく生きて」という思いを、後世に伝えていくことこそが、将来のための最大の防災になる。それには人智の及ばない自然への「畏敬の念」を持たなければいけない。と言っている。

  「稲わらの火」のように、江戸時代の出来事が伝説として語り継がれていったものもある。
  この大川小の「本当の失敗の真実」が明らかにならないと、この大きな悲劇が、歴史の教訓にも昇華できず、子ども達や教師達への本当の慰霊にもならないと思う。

 真実が明らかになることを願う。