裁判所の正体 瀬木比呂志✖清水潔 を読む(4章)

 第4章 刑事司法の闇 

 この章では、瀬木氏が、清水氏に質問する場面が多くなってくる。
 清水氏は足利事件がその一つである北関東連続幼女誘拐殺人事件や、神奈川のストーカー殺人事件について調べ、ドキュメンタリーを書いているのだが(私は読んでない)瀬木氏がその内容について真実と感じて色々と状況について質問し、感想を述べている。

 日本の刑事司法は、検察が起訴すれば99,9%有罪となってしまい。従って、冤罪も多く生み出しているのだという。
 警察の取り調べも、外国では弁護士が立ち合いの下でないと出来ないのだが、日本は密室で行われ、自白を強要されたり、また刑事裁判官は検察が起訴したものは基本的に検察と一体化し、有罪とする事が多いという。

 「起訴、すなわち有罪」というある意味、恐ろしい物のようだ。足利事件の被告にされた菅谷さんは、警察の厳しい取り調べに耐えきれず、やったと言ってしまうのだが、その事について聞いてみると、裁判の場に行けば、裁判官は公平に自分の気持ちも分かってくれ、法廷で正直に話せば大岡裁判では無いが、裁判官に分かってもらえると考えていたという。もちろんそうでは無かった訳だ。

 清水氏が調べた結果が語られているが、足利事件ではDNA鑑定が明らかに古い方法で間違っていて、真犯人と思われる人がいて、その人とは完全に一致していたり、(それでも検察はそれを認めず、まだその人はつかまっていないのだという)神奈川の事件の方も、真犯人は自殺してしまっているのに、その兄が犯人となって判決が下されていて、それも、一旦、検察が最初に決めた事は、メンツのために絶対というか、間違っていたとせず、おかしな結果を押し通し、結果として真実がねじまげられてしまっている様子が書かれている。

 自白を偏重するのは韓国も同じだったようで瀬木氏が韓国映画にふれてこんな事を語っている。
『 瀬木 そうです。自白をあまりにも偏重しすぎるんです。これは韓国も実はそうだったんだなってよくわかるのが、「殺人の追憶」(ポン・ジュノ監督2003年)という映画です。この映画、刑事たちが主人公で、快楽殺人の連続殺人犯を追っているわけですけど、映画の前半では、ずっと拷問をやっているんです。それを、刑事の方の視点から描いている。そこでの拷問の描き方、これが、ややユーモラスに描いているんです。そこはちょっと疑問を感じるんですけど、でも、おそらく、あそこには、韓国の人たちのある種の痛みがあるんだろうと思うんですよ。
 自分たちは軍政を許し、軍政下でこういう拷問を許していたと、そのことに対する複雑な思いが、この「殺人の追憶」からは伝わってきます。だから、韓国では、民主化した後、司法についても、ああいうことはもうやめなきゃいけないという意見が強く出てきているのではないかと思います。それが映画にも反映していると。
 でも、たとえば、日本では、そういうことを真正面から取り上げること自体がないじゃないですか。そんな所にも、やっぱり、日本と韓国の、自由に対する切実さの、意識の程度の違いがありますよ、みずからが血を流して民主化をやったということの意味は、やはり大きい』

 日本は起訴権が検察に独占されているが、英米では大陪審、予備審問といった制度があって、一般の人がその辺を監視する仕組みがあるという。日本の場合の検察審査会というのは、力も弱く起訴する方向の物しかない。
 検察が独占する中で、一旦、有罪にしたものは絶対に有罪で通すという風になってしまっているため、あらためて公平な立場で科学的に見て行く事が出来ず、冤罪も相当あるだろうという事だ。確かに、人間は絶対ではないのだから、起訴したら99,9%有罪というのでは、いくら警察や検察が優秀でもちょっとおかしいだろう。
 検察は現役を退職してもOBが力を持ち、それが政界とつながっている闇があるのだという。日本の権力の闇の世界なのだろう。

 清水氏が、様々な事件をきちんと丁寧に調べていって、事実を追及し、おかしいな、と感じた事を発表しても、変わってこない。これは日本社会全体に言える事で、事実について科学的というか客観的というかに見て行かず、政治的な思惑の様な事で、事実から離れていってしまう傾向があるという。
 科学者が研究するような点では日本も進歩してきたのだろうが、この本で言われているように、社会についてはきっとまだまだのレベルなのだろう。