裁判所の正体 瀬木比呂志✖清水潔 を読む(3章)

 この章では、裁判そのものについて話し合われている。裁判は民事裁判と刑事裁判があり、民事裁判には、いわゆる民事訴訟があるが、行政訴訟なども民事裁判に含まれるという事を初めて知った。

 現在の裁判は、とうてい理想的な物ではなく、裁判のスピード化が求められて和解が押し付けられたり、判決も、取り上げられた問題を裁判官がじっくり考えて出す様なものにはなっていなく、勝たせたいと思う当事者の出した書面を適当にコピーアンドペーストして判決文を仕上げる様な事をする裁判官もいるような状態だという。

 また、刑事裁判と民事裁判は、日本ではそれぞれ専門に行う裁判官が決まっていて、その形も問題だが、特に刑事裁判専門の裁判官は問題が多いという事で、それは次章の内容につながっている。

 裁判員制度もアメリカの陪審員制度などと比べると似て非なるものであり、問題が非常に多く、市民の裁判参加の方向は良いのだが現在の日本の実際の姿ではダメである事が書かれている。
 アメリカの陪審員は裁判官は資料を用意するだけで、有罪か無罪かは陪審員の全員一致で決める。量刑は裁判所の方で専門的に決めるという。日本は裁判官が複数参加で有罪無罪は過半数で決め、その経過の守秘義務は極端で、守れなかったら裁判員が罪に問われる制度であり、「裁判官が有罪にしたがっていたみたいだなあ~」などとでももらせば罪に問われる厳しさだという。
 現在のままでは、裁判員に選ばれたとしても断った方がよさそうだなと思った。

 3章の最後に、イギリスの童話「不思議の国のアリス」の最後の部分に、裁判の場面が、けっこう詳しく書かれている事が、瀬木氏により紹介されている。
 そこを途中からコピーすると

『 清水 ずいぶん裁判の話ばかりなんですね。タイトルからは考えられない。
  瀬木 はい、それから、最後に、裁判長をやっているハートの王様は面倒な裁判を早く終えたいものだから、「早く陪審員に評決させよ、評決させよ」と言う。と、女王が、「いや、刑の言渡しが先、評決は後じゃ」というわけです。もちろん、本来は、陪審員が「評決で有罪無罪を決めて、裁判官がそれに基づいて刑の言渡しをやるのですが、女王はこれをひっくり返して、ナンセンスなことを言う。するとアリスが、「先に言渡しをするなんてばかげてるわ」と言って、それでトランプをひっくり返して、そこで目が覚める。
 清水 今までうかがった話に置き換えると、ものすごく当てはまるものがある。
 瀬木 この童話がいつ出版されたかというと、1865年、日本では、まだ江戸時代なんです。明治時代の直前ごろに書かれているんだけど、そのころのイギリスの上流の小学校低学年の女の子は、明らかに、今の話ぐらいの裁判に関する知識があった。あるいは少なくとも理解できたんです。「不思議の国のアリス」は、キャロルが、知人の娘であるアリスのために書いたもので、アリスは、キャロルの一番のお気に入りでしたから、もちろん、賢い少女だったのだろうと思いますけど、それにしても、今の日本で、この童話の中のアリス程度の知識がある子供というのは、小学校高学年でも少ないでしょう。まあ、中学生ですよね。だから、皆、子供のころにこの童話を読んでいても、裁判の部分は忘れちゃう。感覚がないから。
 つまり、そこが、日本の近代の「厚みの不足」ということなんです。日本の子供がアリス並みの法的リテラシーを獲得するには、まだ何十年もかかるでしょう。そうするとイギリスとの開きはある意味では、ざっと180ないし200年かということにもなるわけです。少なくともそういう部分では。
 清水 日本だったらお白洲で、市中引き回し、はりつけ、獄門という時代ですよね。
 瀬木 まさに大岡越前、遠山の金さんの時代に。もうイギリスでは、裁判官というものは国民を代表して~ (略)
 清水 (略)
 瀬木 そうですね、イギリスでは裁判の歴史は、ある意味、人々が王権に対して少しずつ権利を獲得してゆく過程そのものですからね。~』

 これを読んで日本が遅れている事が実感させられるのだが、文科大臣が『教育勅語』を大臣室の壁に飾っているような現在では本当に200年くらいの文明の遅れが出ても仕方ないだろうな。

テレビドラマ「盤上の向日葵」を見て

 先日、「福島原発は津波の前に壊れた」という記事が「文藝春秋」に載ったので、初めて「文藝春秋9月号」を買って読んだのだが、それだけ読んだだけで、ただ捨ててしまうのはもったいないと思い、「芥川賞の作品」など読んだことが無い私なのだが、その号の目玉である「芥川賞受賞作品」を読んでみた。
 
 「紫のスカートの女」という作品なのだが、読みだすと面白くて、現代の世の中の感じをとらえたちょっとした面白いテレビドラマを見ているような感じで最後まで読み終わってしまった。
 作者自身の受賞にあたっての文も載っていて、読んでみると、引きこもり的な生活を送ったり、ホテルなどの清掃の仕事をやる合間に小説を書くような生活をけっこう長くやっていた女性でもあり、そういった実生活が作品に生かされてもいるのだろうと思えた。

 こんな風に生きて、小説を書いて、芥川賞をとる人がいるのだなあと認識を新たにした。
 久しぶりに小説を読んでみると、面白く、中に引き込まれるのだが、テレビドラマを見るよりは、自分の脳のある部分を使ってイメージを意識的に作りだしている感があり、映像のドラマを見るよりも、若い頃、無意識で内容に入り込め読み進んでいけるのと違い、老化した脳や目のせいか、ちょっと「読む苦労感?」が感じられたのにはガックリした。(という事は、脳の運動にはテレビより良いのだろう)

 そんな事を感じていた最近、NHK・BS3で、日曜の夜に将棋を扱った「盤上の向日葵」という、推理小説をテレビドラマ化した作品が四週連続で放送されていて、第一回目を見たら、長野県の諏訪が舞台となっていた。面白そうだったので楽しみに最後の回まで見ていた。
実力派俳優の演技も大きいのだろう。回を見終わるたびに続きが見たくなる面白さだった。推理小説特有のドロドロ感もあったり、見終わった後には爽やかな結末もあり感動的でもあった。

 この原作者もネットで調べたら、普通の主婦が推理小説作家になった人のようだった。
 今までもテレビ番組で面白いと思って原作者を調べると女性だったという事が多いような気がする。小説とかドラマとか、そういった物は、読んだり見たりした後に、感情のともなったイメージが湧き上がってきたり、物語の最後にはカタルシスがあったりする。
 現実の生活から空想を広げて、そういう感情のともなった人間の心の動きも入れていくのは、ドキュメンタリーや評論などとはまた違ったものなのだろう。女性の得意分野なのかもしれない。(もちろん一概にそうではないと思うが)

 テレビドラマともなると脚本家とか、演出家や撮影監督、俳優の演技や、音楽とか撮影技術とか、色々な物が総合された複雑な芸術なのだとも気がつく。そう考えてみると、現代では、テレビや映画、出版物などを通して、我々は美術、文学、音楽、演劇、等々、様々な芸術にその気になりさえすれば、いくらでも触れることができ「文化」といったものの奥深さも感じる事が出来るのだろうが、私などつまらないテレビのバラエティー番組などで時間を潰す事すらもある最近の生活にも気づく。残りの人生もあとすこしだというのに。
 
 最近は、あまたの科学者の警告や、論説やドキュメンタリーの告発や警告があるにも関わらず、「地球温暖化」は問題にもされず、政治分野では、萩生田氏のような人が文科大臣になって「非文化庁」の指示を出してくることも、もうすでに前から分かり切った事であり、それですら変わっていこうとしない日本の世の中である。

 こういった「盤上の向日葵」のようなレベルのテレビドラマというか、身近な感情に良い刺激を与えるような、広い意味の大衆的な芸術の質の高さも、大きく見たら世の中を正常に戻すための力になるのではないか、『推理小説とかスパイ小説」のような物が発達できるのは、一党独裁ではない多数政党がある民主主義国家だ、とずっと前、だれかのエッセイ集に書いてあったような気がする。