裁判所の正体 瀬木比呂志×清水潔 を読む(1,2章)

 この本を読み出したのだが、けっこう内容が充実していて、とうてい一気にまとめられない。内容も面白そうなので、分けて書こうと思う。
 この本は、元エリート裁判官で現在、明治大学法科大学院教授の瀬木比呂志にジャーナリストである清水潔が日本の裁判官や裁判の現状を聞くという物。
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 本の「あとがき」の最後に瀬木氏が、
『繰り返すが、本書は、ただの対談ではなく、あるいは、それと並んで、共同の「作品」であり、比喩的にいえば、正確性と論理性を失わない一つの「語り」、「物語」であるともいえる。読者の方々に、この共同作品を楽しみ、また、考え、感じて頂き、その上で、清水さん、僕の読者双方の方々には、他方の書物や仕事にも入っていく入口にもして頂ければ幸いである。』

 というように、たんなる「対談集」という感じの物では無く、清水氏が、ねらった点へ向けたサーチライトが照らし出され、瀬木氏が的確に、かつ触発されてどんどん語っていくような感じで、そのサーチライトの向け方が泥臭くもあり、鋭くもあり、また瀬木氏の解説が明晰かつ、さらにイメージが広がり、日本の裁判所の全体像や細部が明らかになっていく感じだ。私が何となく分からないなあ、と感じていた事にも答えが出されていた。

 1,2章は、
・1章 裁判官の知られざる日常
・2章 裁判所の仕組み
 というもの。

 以前、瀬木氏の「絶望の裁判所」という本を読みブログに書いたが、日本の裁判所はこうなのかという事は何となく分かったような気がしていたのだが、この本を読もうと思った直接の動機は、先日の「東電役員への原発事故の訴訟」の判決だった。
 どうして、こんな判決が出るのか!憤りや疑問があらたにわき出てきたので、さらにこの本を読んでみたという訳だ。

 その部分の答えが書かれていた。
 
 裁判官はどういうふうに判断を下してゆくのか、という事について、瀬木氏は、アメリカ法学の学派の考えを紹介し、『外から与えられる情報・刺激(これは、証拠や関係の法までを含む広い概念)と裁判官の人格が関数となって結論が決まる』という物であり、その考え方が瀬木氏も正しいと考えている、と述べている。
 その場面の続きは、
『 清水 なるほど、情報と人格ですか・・・。
 瀬木 でも、これは、事件の性格によって違ってくる。ごく簡単な事件では、まさに事実と法律を当てはめるだけなんですね。
清水 事実関係で争いがない刑事事件などですね。
瀬木 民事でも、貸金とか賃貸借関係の事件であまり争いがないようなものは、ごく単純な当てはめです。でも、広い意味での価値、社会的価値にかかわる事件、たとえば、憲法訴訟、行政訴訟、国家賠償請求訴訟、名誉棄損関係訴訟、医療過誤訴訟等では、関係の条文や法律問題の枠組み自体は非常に大まかで、ある意味あってもなきがごとしですから、裁判官の価値観や裁判官に外から与えられる広い意味での情報・刺激が決定的な意味をもちうるんです。冤罪が争われている刑事訴訟、ことに再審事件等では、まさに決定的でしょう。
清水 事実に法律を当てはめるというようなオートメーションにはならないわけですね。
瀬木 ならないですね。むしろ、裁判官の人格や裁判官にかかってくる有形無形の圧力が、重要になってくる。~』
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 『法律問題の枠組みは、ある意味あってもなきがごとし』なんだ!これを読むと、やはり、裁判官の価値観、そこから来る情報の選択、裁判官の人格などの欠如が、先日の判決がおかしい、と感じた大元なのだと納得させられる。

 1章の最後に瀬木氏は
『 本来、裁判官というものは、自分の考えをきちんともっていて、それに従って裁判をすべきものです。権力にも迎合しないし、世論にも安易には迎合しないというのがあるべき姿なのです。ところが、日本の裁判官は、まず権力、それから時の世論ということになるので、たとえば、日本という国がどんどん悪くなっていくような場合、日本の裁判官には、そういうものに対する歯止めとなる力がきわめて乏しく、それは、ごくごく一部の裁判官にしか期待できない、ということになるのです。そこは、本当に、日本のキャリアシステムの大きな問題です。』と、書いている。

 さらに、第二章 「裁判所の仕組み」の中で、印象的な部分を紹介すると

『 清水 お話の中で、よく裁判所システムと軍隊を比較されますよね。
  瀬木 大学に移ってずっと考えてきたところでは、似ていますね。「黒い巨塔 最高裁判所」(講談社)の中で具体的に書いているとおり、ある意味、エリートサラリーマンよりももっと精神的に苛酷な世界なんですよ。
清水 なぜそういう世界になるのですか?
瀬木 裁判官を厳しく統制しておきたいからでしょうね。少しアメリカの裁判所の話をしますと、たとえば、一票の価値裁判では、一票の価値原則を貫かなければならないとして、専門家の助言を得て、選挙区割りまで自分たちで考えて、提示してしまう。~中略~
もう一つ有名なのは教育関係の裁判があって、黒人と白人の学生を分離した上で平等ということでやっていたのを、そんなのだめだと。分離したって不平等なんだから、一緒の学校に通わせろということを裁判所が判決で決めて、実現させるように監督する。これで教育制度が根本から変わる。もちろん一方ではきしみも起こりますけど、極端な場合、そういうことも裁判というのはできるわけです。
 アメリカはその典型ですが、欧米先進国一般で、「裁判所は権力ではあるが、市民、国民の立場からほかの権力を監視する権力チェック機関。だから尊重する」というのは常識だと思います。日本みたいに、「裁判官に、原発のことやエネルギー政策のことなどわかるのか」などといったことを、「自称知識人」が口にして、平気ですましていられるというのは、ありえないですね。
 だからこそ、権力のほうは、みえない形ではありますが、軍隊同様に、必死で統制するわけです。裁判官が本当に良心に従って裁判をし始めたら、あらゆるところで権力の「統治と支配」の根幹が揺らぎますからね。
清水 なるほど、先ほども話題になった「統治と支配」ですね。
瀬木 たとえば、危険性があると認定された原発は稼働できない。一人一票の原則が実現されれば、国会の勢力図が完全に変わってしまう。空港の夜間飛行禁止差し止めも同様です。本当に、社会のあり方が根本から変わってしまうんです。それが裁判というものの民主的な力。もちろん、判断は公正中立にしなければいけませんが。
 それくらい大きな力を潜在的にはもっているからこそ、裁判官は、本当に、十重二十重に厳しく統制されているわけです。
清水 われわれが本来もっているイメージというのは、三権は分立していて、司法は非常に独立性が高い仕事であるというものです。けれど軍隊というのは完全なタテ社会ですから、まったく真逆の感じがして、驚くしかないんですけれども。
瀬木 そうです。本来あるべき姿とは真逆です。しかし、少なくとも、最高裁事務総局は、きわめて軍隊、その参謀本部、あるいは全体主義的共産主義国家の中央官庁に近い組織です。
清水 しかもそれが、最高裁長官をトップとする強大な権力によって統制されていると。』
 
 そうなのか、日本の裁判所は、旧ソビエトや中国の中央官庁的なシステムと似ている物なのだなあ~と本当に納得させられた。民主的とは遠く、最高権力によって『統制』されている組織なのだ。
 この本には、若い裁判官が前例と違う自由に判決などだそうものなら、もう全く出世の道は閉ざされるような事が書いてある。最近では大飯原発運転差し止めの判決を出した樋口英明裁判長は地裁から外され家裁に移動になった。これも明らかな格下げの報復人事だ。
 裁判所は、ものすごい階層制度となっていて、若い頃から徐々にその階段を乗っていくようにして出世を競わされるような感じになっている。その頂点に最高裁判所がある。

 以前は裁判官としての矜持を持った人たちもいたが、2000年以降、上からの統制の傾向はますます強まり、締め付けが強くなってきたせいか、裁判官の不祥事も増え、(これは、教員の不祥事が増えてきたのも同じか?)また最高裁の裁判官が民間に天下りするような腐敗構造が増えているのだという。
絶対的共産主義国の末期の政府に腐敗が蔓延してきた時と同じような感じになってきている、との事が書いてあり、暗澹とした気分になる。

 2章の最後の方に、日本の裁判所はガラパゴス的になってしまっているという事が書かれていて、
『清水 日本国内とか、政府の話を聞いていると、日本は先進的というようなことをよくいいますけど、一つひとつ見ていくと、長く止まったままになっているものが多いんですね。
 瀬木 政府もそうですし、最近はテレビでも日本をほめるようなことばかりいっている。でも、「ニッポンの裁判」を通してお読み頂けばおわかりと思いますが、本当にこれで近代民主国家の水準に達しているのかというような裁判が平然と行われ、マスメディアもそれを放置している、あるいは、そもそも批判するだけの見識や知識をもっていない、というのが残念ながら、事実です。人権や社会的価値にかかわる裁判の内容をみる限り、残念ながら、そういわざるをえない。
 でも、それは裁判所だけかと思っていたら、学者になってさまざまな分野の人の話を聞くと、行政もそうだし、立法もそうだし、東大を中心とする官学もそうだし、マスメディアにもそういう傾向がある。もう、これは、日本の制度全体がそうなのではないかという気がするんです。前にも言ったことですが、確かに、広い意味でのテクノロジーや職人仕事やアートは一級、自然科学のノーベル賞も多いですし、国民性も、勤勉で礼儀正しいことは確か。けれども、一方、社会的・法的リテラシーはまだ十分とはいえず、民主主義や自由主義の基盤も脆弱。それが事実だと思うし、実際、欧米の知識人や自由主義者たちの評価もそうでしょう。つまり、一級の部分とそうでない部分があると。でもそれは恥ずかしいことではない。一級の部分もあるのですから、そうでない部分も直視して、さまざまな意味で尊敬される国になってゆくべきではないかと思うのです。すべての面で一級の国などないわけですし。』

 日本人は裁判を「大岡裁き」のようなお上のお裁きという意識でとらえていて、市民、国民の代表として正しい判断をする人とか、権力に対して法によって国民を守る、といった役割、などという風にも考えていない。という事も書かれている。
 これは、『イギリスやアメリカのように、国民が権力と対決する場所というのは、常に裁判所にあり、イギリスだと、王様といえども法に従わざるをえなくなる。』
そういった歴史が無いから仕方が無いのかもしれないが、そういった歴史が遅れている日本は、謙虚にこれから足りない事を自覚して歩んでいけば良いのではないか。と本が言うように進むべきだ。最近でもイギリスで首相が議会を開かないと言ったら、最高裁がそれは出来ないと判決を出した事など、やはり腐っても鯛で、イギリスは日本とは根本的に違うなと分かる。
地球温暖化を訴えるスウェーデンの女子高校生のように学校を毎週休んで訴えていたそうだが、日本の高校生がそういう行動を学校ですることが許されたり、世間が0の時からそれを支持できるだろうか。

 その他、この章では、トルストイの短編小説「イヴァン・イリイチの死」に出てくる帝政ロシアのエリート裁判官と日本のエリート裁判官のあり方がとても似ているのだ、という事が書かれている。日本の現在は「帝政ロシア」かあ、と納得してしまうが、短編だから、また読んでみよう。

 引用ばかりとなってしまったが、うまくまとめられない、お許しを。ぜひ、本を読んでみてください。

 瀬木比呂志氏の「絶望の裁判所」を以前、読んだ時のブログはこちら。
https://js30.at.webry.info/201404/article_5.html