「絶望の裁判所」瀬木比呂志 を読む

   この本の最初に、
  『裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべるだろうか?ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、同様に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか? 』

  という風にこの本は始まっている。
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  私も、今まで裁判官についてそんな風に単純に感じていたのだが、その続きは、
  『しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。~ 』
 と、その現在の真実の姿が私たち一般市民の目の前に明らかにされている。

  また、この本の最後には、
  『最後に付け加えれば、本書は、ある意味で、司法という狭い世界を超えた日本社会全体の問題の批判的分析をも意図した書物であり、そのために、社会学を始めとする社会科学一般の方法をも適宜援用している。私たちの社会の組織、集団等のあり、バブル経済崩壊以降のその行き詰まり、停滞には、本書で私が種々の側面から分析したような問題に起因する部分が大きいのではないだろうか?日本の裁判官組織は、法律専門家エリートの閉ざされた官僚集団であるために、そのような問題が集約、凝縮されて現れ、社会病理学、精神病理学的な様相を呈しているのではないだろうか? それが、私の仮説である。
その意味で、私が提起した問題には、一定の普遍性があるのではないかと考えている。』

  と、終わっている。

  著者は、私より四歳年下の60歳だ。東大法学部在学中に司法試験に合格し、東京地裁や最高裁に勤務、アメリカへの留学もした法曹界のエリートだった人である。

  年代からして大学紛争後の団塊世代以後の人だ。いわゆる左翼系の人でなく、自分は自由主義者であると述べている。著作などを現役中から続け、現在の官僚的裁判所の体制に耐えられず、裁判官を辞める決意をし、現在、学者として明治大学法科大学院の教授になっている人だ。

  文学、音楽、映画、マンガ、等、芸術にも深い教養があり、法曹界の事を書いた本なので多少は読みづらい本なのかなあ、と想像して読みだしたが、ドキュメンタリーを読むようにとても興味深く読むことが出来た。また、その文章の節々に現れる著者の感覚に小説を読んでいるような豊かな気持ちにもなる。

『~その意味で、私が提起した問題には、一定の普遍性があるのではないかと考えている。』

と述べているように、例えば私が定年まで勤めていた日本の「公立小学校」ですら、裁判所とはいかにも内容やレベルが違っているから全く違う世界だろうと人は考えるだろうが、この著者が言われている、組織の上意下達、自由や創造性が大事にされない(小学校は裁判所よりはましとは思うが)等々、この本での著者の批判に共感する部分が私には多くあった。

  日本社会論としても、この本はとても優れたものではないかと思う。

  裁判官は「公正、中立、清廉、」と思っていたと同じように、「革新的とはいえなくても、教養や、見識に優れる、あまり偏らない人格者」、がなると思っていたNHKの会長や、委員にあんな人達がなっている最近の社会が、どうしてそんな風になってきているのか? 私には理解できない、そんな日本の現状についても、どういう過程を経て組織がそう劣化して行くのかも、裁判所の例で分析されているかのようだ。
  それは、著者の2000年以後あたりから現在への日本社会崩壊への危機感でもある。

  また、「冤罪事件」など、自分には無関係な遠い世界のように感じていたが、
 『~法律専門家の眼からみると、こうした意味では、日本の国民、市民は、がけっぷちの空き地で無邪気に遊んでいる子どものように見えることがある。~』

  という、我々一般市民の現在の人権感覚、法についての意識のレベルでもある、という事も気づかされる。
 それは、やはり、フランスや米英ほどの自ら自由や人権を獲得してきた歴史を持たない事や、ドイツと違って敗戦時、中途半端に戦前の日本が生き残ってしまった事の、結果なのだろうか。

  地震列島でそれを考慮しない一極集中や、原発を動かしている事に危機感をいだいている地震学者の警告の書ように、裁判所組織、裁判官の劣化、憲法、人権や権利、に無関心な国民が、戦争へ突入する頃の戦前のように、どんどん危険な状態に陥りかかっている状況への本物の法学者からの警告の書でもある、と感じた。